自己ベスト記録一覧 記録を見る限り,大した選手じゃないことがおわかり頂けるかと思います・・・
400m | 60秒93 | 北信陸上競技選手権大会 | 長野市営 | 1989.8.27 |
800m | 2分30秒8 | 諏訪大社陸上競技大会 | 下諏訪町営 | 1990.6.24 |
1500m | 4分47秒33 | 北信陸上競技選手権大会 | 長野市営 | 1990.8.19 |
5000m | 17分28秒5 | 全信州陸上競技大会 | 上田市営 | 1990.10.7 |
10000m | 36分34秒8 | 国民体育大会長野県予選会 | 松本運動公園 | 1990.9.15 |
10km | 35分32秒 | 聖高原ロードレース大会 | 麻績 | 1990.11.11 |
10マイル | 1時間12分06秒 | 長野県ロードレース伊那大会 | 伊那 | 2005.3.6
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20km | 1時間16分54秒 | 聖高原ロードレース大会 | 麻績 | 1991.11.24 |
30km | 2時間46分09秒 | 大町アルプスマラソン | 大町市 | 1989.10.8 |
42.195km | 3時間48分25秒 | 長野オリンピック記念長野マラソン | 山ノ内~長野 | 1999.4.18 |
<参考記録> | | | | |
10マイル | 1時間02分19秒 | 長野県ロードレース須坂大会 | 須坂 | 1998.12.6 |
陸上競技を始めたころ
高専に入学してから本格的?に陸上競技を始めました。私が入った当時,5000m16分台の先輩が大勢いて,その中で練習することになりました。当然,先輩たちに付いていけるはずがありません。それでも食らいついて頑張った成果が徐々に現れ始め,10km以上のレースでは安定した走りができるようになりました。1年の時に聖高原ロードレース(東筑摩郡麻績村)の20kmに出場して,昭和28年ボストンマラソン優勝の山田敬蔵氏と競り合ったおかげで10位に入賞,山田氏に「これからももっと走り込みなさい」とアドバイスを頂いたのが印象に残っています。
2年次以降はいいことがありませんでした。1年の学年末にロードで猛練習した原因かどうかわかりませんが,花粉症になり,以降毎年春は練習できない状態に陥りしました。また,ただでさえ遅いのに10000mに凝り始め,長野県選手権など県の主要大会で6回も最下位をマーク,審判員に「あと○×周だ。諦めるな!」と言われる始末でした。よく走ったと自分を褒めたいですが,審判員の皆さんには最後まで走らせていただいて感謝しています。
3年とき,高専大会に出場できるチャンスがやってきました。1500mの選考レースに出場したのですが,スキー部所属の選手に敗れ,砲丸投に出場することになりました。競技場内にカメラを持ちながら競技をして審判員に怒られ(もっと真剣に投げろと言いたかったのでしょう。反省。)記録も良く覚えていませんが,6m台のひどい記録だったと思います(記録は紛失して迷宮入り)。
4年のときは念願の5000mに出場することができました。千葉県富津臨海公園で走ったのですが,猛暑でバテバテ,18分18秒8で8位。あまりチームに貢献することができませんでした。この悔しさをバネに夏・秋と走り込み,秋の20kmレースで1時間16分台で走りきりました。このときが私の競技生活のピークでした。
5年は大学受験のため完全休養。受験が終わって練習を再開したものの,大した結果を残すことができませんでした。
大学生~現在
大学に編入学して,3年次はほとんど練習しませんでした。4年次になって,夏の関東信越地区高専大会の審判をする機会がありました。長野陸協の記録委員長の先生から「記録処理をパソコンでしてみないか」と持ちかけられ,卒業研究と大学院の試験勉強そっちのけでBASICでプログラムを完成させて,トラック競技のみ記録処理を行いました。長野陸協初の試みだったと思います。
この大会の審判員をして,もう一度走りたい気持ちが強くなり,練習を開始しました。朝学校に行ってから着替えて1時間程度走ってから研究室で実験をするパターンでした(先生,ごめんなさい)。徐々に走る感覚は戻ってきましたが,自己記録更新には至りませんでした。
就職してから陸上競技部の顧問になりました。学生と一緒に練習していますが,なかなか勤務との兼ね合いで練習時間を確保するのが難しく,休みがちになっています。
現在は審判員をするのがメインとなってしまい,トラック競技からは離れていますが,学生と一緒にロードレース大会に出場しています。1999年から開催されている長野マラソンに出場しています。